峻岳の詩吟うん

 

7言律詩  「本能寺」と 頼 山陽



  本能寺     頼 山陽


  本能寺 溝は幾尺ぞ
      吾れ大事を就すは 今夕に在り

  こう粽手に在り こうを併せて食らう
      四簷の梅雨 天 墨のごとし

  老の阪 西に去れば 備中の道
       鞭を揚げて東に指せば 天 猶早し

  吾が敵は 正に本能寺に在り
       敵は備中に在り 汝 能く備えよ
 

【詩形】 七言律詩

【語 釈】

   本能寺   当時京都西洞院小川にあった本門法華宗の大本山
         織田信長の本陣に当てられていた。
   大 事   大きな事業……ここでは信長を倒して天下をとること。
   茭 粽   ちまき、5月の節句の食べ物で笹の葉などで包んだもち。
   四 簷   四方の庇(ひさし)
   老 阪   丹波と山城の国境にある
   天猶早   未明……まだ夜の明けきらぬをいう。

【頼 山陽と本能寺の変】

 明智光秀は天正10年5月29日、備中への出陣に当たり、
 連歌師に本能寺の「溝の深さは、どれほどあるか」と尋ねた。
 又、連歌の発句で「時は今、雨が下たる五月哉」と読み、信長 は襲撃の決意の程をほのめかした。
 この光秀を皮肉った世に名高い「本能寺の変」をドラマチック に歌い上げたスケールの大きい頼 山陽の傑作の一つである。


【詩の心】

【舞台とその時代】

 山陰道の老ノ坂峠は、京都洛内(山城国)と丹波国とを隔てる峠である。
 道が人々の往来という点から言えばこの峠は京都の西の玄関口であり、軍事的に言えば最終 防衛線である。そうした老ノ坂の地理にふさわしく、この峠にはいくつかの物語や伝説が伝 わっており、ひとつは、源頼光の大江山の酒呑童子退治にまつわる伝説である。
 もうひとつ、老ノ坂の名前が物語に登場するのは、天正10年(1852年)明智光秀が織田  信長を京都本能寺に滅ぼしたときに軍勢を率いてこの峠を越えた時のことである。
 主君の信長を討ち代わって自分が天下を取る。毛利を攻めている豊臣秀吉に加勢するために 備中へ向かうように命じられて、居城丹波亀山城(現在は亀岡)に戻った光秀は、そのまま 西へは向かわず 「敵は正に本能寺に在り」と絶叫しながら逆に老ノ坂を越えて京に攻め入 る決心をした。
 
 謀反は失敗すれば謀反に終わるが、成功すればその罪を問われることはない。
 信長は今や敵なのである。
 峠は道中に高低を付け、国と国の境をつくる、そこに人が差しかかる時、その後の自らの  運命を決定し、歴史を揺り動かす、時間上の境目も通り過ぎるのであろうか。
 本能寺の変という歴史上の大事件の舞台として老ノ坂が予め用意されていたかのようである。


【七言律詩『本能寺』の心、後半の4句について】

 漢詩は定型が決まっているのを楽しむものであるが、ここでは乱暴だが老ノ坂の場面だけ  を抜き出してみる。それでも峠を駆け下りた軍馬の轟きを想像することができるだろう。

   老阪西去備中道 (老ノ阪西に去れば備中の道)
   揚鞭東指天猶早 (鞭を揚げて東を指せば天猶ほ早し)
   吾敵正在本能寺 (吾が敵は正に本能寺に在り)

 一説によれば京都へ上る理由を「主君信長公に馬揃えを御覧いただくため」と配下の将兵に 説明したそうであるが、それよりは「敵は正に本能寺に在り」の台詞が峠道にはふさわし  い。
 明智光秀のその後を知る後世の歴史家として頼山陽は、『本能寺』の七言律詩を次のよう  に結んでいる。

   敵在備中汝能備 (敵は備中に在り汝能く備えよ)

 老ノ坂の馬上にある光秀は、もちろん自らの運命をそこまでは予測し得ていない。
 ただ少なくとも、「従是東山城国」の道標を通り過ぎたとき、引き返すことのできないとこ ろまでやって来た我が身を思ったことだろう。


こうした大きなスケールで、この詩を吟じてみたい。

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