峻岳の詩吟うん

 

7言絶句「禁門を過ぐ」と 齊藤 拙堂



 禁門を過ぐ 齋藤 拙堂
 
 
金殿崔嵬彩霞より出で
 御溝汨汨清沙に走る
 春風隔てず仙凡の界
 吹いて人衣に落とす上苑の花

【詩 形】 七言絶句
【押 韻】 下平声・歌韻(霞) 、麻韻(沙・花)

【語 釈】
 禁 門    京都の門、ここでは京都御所の西門
 金 殿    美しい天使の宮殿
 崔 嵬    高大なさま
 汨 汨    水の速く流れる様子
 清 沙    清らかな砂
 仙凡界    仙人と平凡な人。ここでは高貴な宮園と世人の住む堺 

【齋藤 拙堂】
 寛政9年(1797年)慶応元年7月18日(1865年9月7日)享年69歳。
 伊勢の国津の人。幕末の朱子学者。諱は正謙(せいけん)。
 字は有終。通称は徳蔵。

 津藩士の子として江戸藩邸内にて生まれ、年若くして昌平黌で古賀精里の教えを受ける。
 古文に通じた人物として24歳で藩校有造館の創設に加わり、藩主藤堂高猷(たかさね)の侍講となった。
 天保12年(1841年)に郡奉行に任ぜられて地方役人や庄屋の不正を糺し、弘化元年(1844年)督学(校長)を務めて文庫の充実や『資治通鑑』の刊行などを行う。
 アヘン戦争後には海外事情についても研究を重ねた。
 彼自身は一貫した朱子学者であったが、西洋の文物でも優れているものはそれを認めて、和漢洋の折衷によってより良いものにしていくことを唱えた。そのため、有造館に洋学所を設置して藩医達とともに種痘を行い、洋式軍制を取り入れるなどの藩政改革にも関わった。晩年には江戸幕府に招かれたものの、主君の元を去り難しとこれを辞退している。
 また、頼山陽や大塩平八郎、渡辺崋山、吉田松陰などとも交友があった。
 その博学ぶりは広く世に知られたが、特に漢文を以て知られ、古今の漢文について評した『拙堂文話』や武士のあり方について論じた『士道要論』、『海防策』などその執筆分野は多岐にわたっている。
 また、後南朝の名付け親としても知られている。
  

【通 釈】

   この詩は、地元津市の儒学者・斉藤拙堂の都人を思う7言絶句である。

  御所の宮殿は高く美しい霞の上にそびえ、お堀の水はさらさらと清らかな沙の上を
  走っている。もちろん宮園の内に世人は近づくことはかなわないのだが、
  春風は畏き辺りと、世間とを隔てることなく吹きわたり、門前を通る人の衣の上に
  御苑の花を吹き落すのである。このような宮殿の内がとっても気にかかるのである。

【余 説】
  この詩は柴野栗山の「月夜禁垣の外を歩む」と好一対といわれている。
  
譜 面







   

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