峻岳の詩吟うん

 
盛唐期の代表的詩人(李白と杜甫)


  
 李白(701~762)
 
 李白は、杜甫(712~770)より11歳年上の盛唐期の
代表詩人で、杜甫を“詩聖”とするのに対して、李白は
“詩仙”と称されている。
 字は太白。李白の素性については、今なお不明なところが
多い。李白の父は、中央アジアを舞台とするシルク=ロード
の隊商として活躍した人で、李白が生まれて後、隊商の生活
をやめて蜀(四川省)に定住し、そのとき「李」という姓を
名のるようになったのであるが、前姓は何であったかわから
ないとされている。
 「李」は、唐の王朝の姓で、当時最も有名な姓であった。
 李白の父は李姓を名のって以後、土地の人から「李客」と
呼ばれたということだけが知られているが、「李客」とは、
お客さんの李さんということで、名前ではない。

 李白は、郭沫若の『李白と杜甫』によると、條支国の砕葉
(さいよう)今のソ連領中央アジアで生まれたようだ、又、
李白の父が四川省の彰明県青蓮郷に定住するようになったの
は、李白が4~5歳の時のことであろうとされている。
 李白は科挙(官吏採用試験)に受験する志をもたず、若い
ころは道士たちとつきあって道士修行に励んでいた。
 第6代皇帝の玄宗は道教を国教としたので、当時道士の位
置はかなり高かった。
 李白が科挙の受験を志さなかったのは、その出生が商人の
息子であった為、受験資格がなかったらしい。

 
 24~25歳のころ、蜀を離れて中原の地に出るが、
  李白の生涯においてはっきりしているのは、

  ◆42歳のとき、道士ゴインの推薦で玄宗の翰林供奉に任官したこと。

  ◆44歳のときその官を辞任して、杜甫・高適とともに旅に出たこと。

  ◆翌年二人と別れ、45~46歳のころ、正式に道ロク(道士の証明書)を得て道士となった
   こと。

  ◆56歳のとき、安禄山のさなか、反乱軍を討伐するために江南で兵を挙げた永王リン
   (玄宗の第16子)の幕府に参加したこと。

  ◆しかし永王リンの軍が粛宗によって反軍とみなされて討伐され、57歳のときに李白も
   捕えられて潯陽(じんよう、江西省)の獄につながれ、59歳のとき夜郎(貴州省)に
   流されることになって、三峡のあたりまでいたったとき、恩赦にあって自由の身になる
   ことができたこと。 などの数項に限られる。
   李白は生涯をかけて、中国の各地を実によく歩いており、それぞれの土地において、
   たくさんの詩をつくっている。
 旅の詩人というととかく杜甫がとりあげられるが、李白の足跡は杜甫の足跡とは比較にならぬ
 ほど全中国を縦横に行動している。
 そして自由の身として、スケールの大きいみごとな詩をうたいつづけたのであった。
 そうした点では、李白が尊崇した孟浩然(689~740)の影響が考えられる。

李白は、酒を愛し、山を愛し、月を愛した。
 そうした好みは、道士の世界にあこがれをもったことから生まれているかもしれない。
 李白は「詩仙」といわれたように、まさしく詩中の仙人であり、また「酒仙」でもあった。
 きまじめな儒学の教養のみをたいせつにした杜甫は、とらえにくいスケールをもつ李白から
 強烈な刺激を受けたようで、放浪の身となってからの杜甫は、しばしば李白を思いおこして
 李白をしのび、また李白のスケールの大きい詩句を活用するのであった。

 〔参考文献〕
   鈴木修次「李白論」『唐代詩人論』第2冊、1979、講談社
   小尾郊一『李白』中国の詩人[6]、1983、集英社
   松捕友久『李白-詩と心象』1984、社会批評社 による。

 杜甫(712~770)
 杜甫は、11歳年上の李白とともに唐を代表する詩人であり、
中国では「詩聖」として現代においてもあがめられている。
 字は子美。襄陽(湖北省)の杜氏の出であるが、生まれたのは
鞏県(河南省)であった。

 杜甫自身、詩のなかで、杜陵(長安)の杜氏の出であることを
口にするが、杜陵の杜氏は本家であり、杜甫の生まれはその分家
の襄陽の杜氏である。
 杜甫の祖父杜審言(としんげん)は、則天武后の時代の詩人と
して有名であった。
 父の社閑は、地方官で終わった。
このように、杜陵の杜氏はなかなかの名門であるが、分家の襄陽
の杜氏からはさしたる政治家は出ていない。
 とはいえ、杜甫は、ともかくも官僚人の家に生まれたので、
自らも官僚人になることを志し、科挙の試験(官吏採用試験)を
何度も受験したが、ついに合格せず、44歳までは職もなく浪人生
活を余儀なくされた。
 

40歳頃からの杜甫は、社会的題材をとりあけて民衆に代わってうたうという
 社会詩人として名声をあげていった。


 44歳のときに、知人の推薦によって右衛率府冑曹参軍事(皇太子の御殿を防衛する軍隊の
兵器庫の管理者)に任官した。
 任官後間もない45歳の時
 安禄山の乱がおこり、杜甫は前年食糧疎開をさせていた家族の住まいを移すために疎開先に
行ったが、そこで粛宗(しゅくそう)が霊武で即位(757年)したというニュースを聞いて、
単身粛宗の行在所(あんざいしょ)に馳せ参じようとして行く途中で、安禄山側に捕らえられて捕虜にされ、長安の捕虜収容所に送りこまれてしまった。

【有名な「春望」の詩は、757年長安の捕虜時代、作者46歳長安での作である】

翌年4月
 収容所を脱走して、そのときは鳳翔(陝西省)に行在所を移していた粛宗のもとにたどりつき
、格別の抜擢で左拾遺という天子側近の諫官にあてられた。
しかし、元来、科挙にも合格していなかった杜甫であったため、社会の秩序が少しづつ回復する
とともに、華州司功参軍事という地方官に出されてしまった。
47歳(758年)の6月のことである。
 この時期の杜甫は、後世の人から「詩史」(詩による現代詩)と称されるほど、安禄山の乱を
題材にして、たくさんの詩をうたいつづけた。

48歳の秋

 華州司功参軍事として任官中は、杜甫の社会詩の最大傑作とされる「三吏三別」の6作品を
作ったが、そのなかで政府のやり方を批判する発言があるということで、華州司功参軍事の官を
免ぜられてしまった。
 そののち、杜甫は、職を捨て妻子を連れて、放浪の詩人としての長期の旅に出る。
 秦州から同谷をへて、48歳の12月に成都(四川省)にたどりつき、翌49歳のとき、成都の浣
花渓(かんかけい)のほとりに草堂をつくり、54歳まで成都に滞在することになる。
 この時期が、杜甫にとって最も恵まれた時期
 かつての友人の巌武(げんぶ)や、高適(こうせき)が交替に、この地域の高官として着任し
、杜甫の生活を見てやったりもした。

53歳のとき
 剣南東川節度使の巌武の推挙により節度参謀・工部員外郎となったが、それも永くは続かず、
翌年54歳の正月には官を辞して浣花草堂(かんかそうどう)にもどった。
 そしてこの年の正月に高適が、4月には巌武が相ついで亡くなるとともに、杜甫は成都の生活に
見きりをつけて、家族ともども再び旅に出た。
 こんどの旅は、長江を利用しての水上の旅であったが、健康をむしばまれつつあった杜甫は、
しばしば水上から陸地に上陸して、病気療養にあたらざるをえなかった。

55歳の秋から57歳の正月まで
 キ州(四川省)時代に、『秋興』八首の連作をはじめとして、数々の名作を残した。
 杜甫の芸術が最も結実したのは、この足かけ3年のキ州時代であった。

57歳の正月
 キ州を離れ、また長江を下って洞庭湖に向かい、さらに南下して長沙(湖南省)に向かおうと
したが途中で洪水にあい、あきらめて北上する途中、潭州と岳州(ともに湖南省)のあいだの
水上で、家族に見とられつつ59歳の寿命を終えたのであった。

官をやめてからの杜甫は、
 社会詩人であることをやめて、詩を芸術作品として高めるために、いろいろと様式のくふうを
し、中国詩の可能性の極限に近いところまでの追究を試みた。
 杜甫が後世「詩聖」をもってあがめられるのは、実にこの点にある。

 杜甫の一生のうち、在官中はすぐれた社会詩人として、また官をやめて放浪の旅に出て
 からは、すぐれた芸術詩人として、後世の詩人に限りない刺激を与えたのであった。



 〔参考文献〕
   高木正一『杜甫』1969、中央公論社
   鈴木修次「杜甫論」『唐代詩人論』1979、講談社
   鈴木修次『杜甫』1980、清水書院  による。








   

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