峻岳の詩吟うん

 

5言絶句  「山を看る」 と 新島 襄



 山を看る    新島 襄

山を看れば 高きこと巍巍たり
 海を見れば 闊きこと洋洋たり味わい得たり 造化の妙
 小心 少しく発揚す

〔詩形〕 五言古詩
〔韻字〕 洋・揚(下平声七陽(よう)韻)

【語 釈】
看 = 望み見る
巍巍= 山の高く大きいさま
観 = 遠くまで景色を見わたす
闊 = ひろい。「濶」とする本もあるが同じ
洋洋= 広々として大きいさま
造化= 宇宙自然。造物主。
妙 = 人間にははかり知れない働き
小心= 己のちっぽけな心。意気地の無さ
発楊= 奮い起こす

【新島 襄】

 新島 襄(にいじま じょう、1843年(天保14年)ー   1890年(明治23年)安中(群馬県)藩士の子
 天保14年(1843年)、江戸の神田にあった上州安中藩江 戸屋敷で、安中藩士・新島民治の子として生まれる。本名 を七五三太(しめた)という。
 後に敬幹(けいかん)と改名。
 その後、幕府の軍艦操練所で洋学を学ぶ。ある日、アメリ カ人宣教師が訳した漢訳聖書に出会い「福音が自由に教え られている国に行くこと」を決意し、当時は幕府により禁 止されていた海外渡航を思い立つ。
    
1864年(元治元年)、アメリカ合衆国への渡航を画策し、箱館で当時ロシア領事館付の司祭だったニコライ・カサートキンと会う。ニコライは新島の渡航への意思の強さに折れ、坂本龍馬の従兄弟である沢辺琢磨や福士卯之吉と共に新島の密航に協力した。

6月14日(新暦7月17日)、箱館港から米船ベルリン号で出国、上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、船中で船長ホレイス・S・テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから以後その名を使い始め、後年の帰国後は「譲」のちに「襄」と名乗った。
 ボストン到着後、フィリップス・アカデミーに入学。 1866年(慶応2年)12月、アンドーヴァー神学校付属教会で洗礼を受ける。1867年にフィリップス・アカデミーを卒業。
1870年(明治3年)にアイビーリーグと同等レベルのリベラルアーツカレッジのトップ3の一つで、リトルアイビーと呼ばれる名門校アマースト大学を卒業(理学士)。これは日本人初の学士の学位取得であった。アマースト大学では、後に札幌農学校教頭となるウィリアム・スミス・クラークから化学の授業を受けていた。クラークにとっては最初の日本人学生であり、この縁でクラークは来日することとなった。当初、密航者として渡米した襄であったが、初代の駐米公使となった森有礼によって正式な留学生として認可された。

 1872年(明治5年)、アメリカ訪問中の岩倉使節団と会う。襄の語学力に目をつけた木戸孝允は、4月16日から翌年1月にかけて自分付けの通訳として使節団に参加させた。
 襄は使節団に参加する形でニューヨークからヨーロッパへ渡り、フランス、スイス、ドイツ、ロシアを訪ねた。その後ベルリンに戻って約7カ月間滞在し、使節団の報告書ともいうべき『理事功程』を編集した。これは、明治政府の教育制度にも大きな影響を与えている。また欧米教育制度調査の委嘱を受け、文部理事官・田中不二麿に随行して欧米各国の教育制度を調査した。
 1874年(明治7年)、アンドーヴァー神学校を卒業する。新島はアメリカン・ボードから日本での宣教に従事する意思の有無を問われると、即座にそれを受託した。1875年(明治8年)9月、宣教師志願者の試験に合格し、ボストンで教師としての任職を受けた。新島の宣教師として身分は「日本伝道通信員」(Corresponding member of the Japan)であった。
 同年10月、アメリカン・ボード海外伝道部の年次大会で日本でキリスト教主義大学の設立を訴え、5,000ドルの寄付の約束を得る。
 国を興すのは教育、知識、国民の立派な品行の力にあるとして、帰国後、同志社英学校、同志社女学校を設立、同志社発展の為に心血をそそいだ。

【詩の心】

 山を見ると高く大きく、海を見れば果しなく広々としてゆったりとしている。
 このすばらしい山や海をつくり出した自然の理のすぐれていることを感じると、こせこせした私の心も、山の如く大きく 海の如く広い心をもたなければならない、と意気があがるのである。
 この詩の 起句・承句は対句になっている。

譜面

   広々とゆったりした気分で力強く吟じたい。 lesson

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